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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

EU-25/2004(中欧)

 EU新加盟国・ハンガリー共和国 2004年05月05日

 ハンガリー共和国は面積9万平方キロ(日本の4分の1)、人口はちょうど1千万くらいの国である。国境を接する国は西のオーストリア、スロヴェニア、南のクロアチア、セルビア・モンテネグロ、東のルーマニア、北のウクライナ、スロヴァキアと実に七ヶ国にもなる。真中をドナウ河が南北に流れるカルパチア盆地に位置する完全な内陸国で、西部にあるバラトン湖を「ハンガリーの海」と冗談を込めて呼んでいる。国土の多くは平原地帯である。
 今でこそ比較的小さい国だが、かつてハンガリーは東欧随一の大国だった。隣接諸国のルーマニア(トランシルヴァニア地方)、スロヴァキア(南部)、セルビア(ボイボディナ地方)にハンガリー系の少数民族が住んでいるのはその名残りである。

 僕は残念ながらハンガリーに行った事はないが、ハンガリー人に会ったことはある。最初はなぜかシリアでだった。ドイツ隊の発掘を見学に行ったのだが、そこにハンガリーから来た女子学生が参加していた。可愛かったのは言うまでもないが、ドイツ人女性には無い恥じらいの表情が印象深く、女性との接触が少ないアラブ圏でのこと、いっぺんにハンガリーのファンになってしまった。いや、もともとハンガリーには興味はあったんですがね。
 次はドイツに留学してからで、ドイツにはたくさんのハンガリー人が留学している。その中に科学アカデミーの研究員が妻子を連れて研究滞在していたのだが、彼は温厚ないい人だった。フン族やアヴァール族(共に初期中世の遊牧騎馬民族)の起源地とされる中央・東アジアに興味を持っていた。
 うちの学科にも、父親がドイツ人で母親がハンガリー人という学生が居る。彼が母親と電話で話すのを聞いていたが、発音に抑揚がなく、他のヨーロッパ言語とは異なる奇妙な言葉に聞こえた。
 ハンガリーは時々「ヨーロッパの中のアジア」と言われる。ハンガリー人は彼ら自身をマジャル人と呼ぶが(以下民族名は「マジャル」で統一)、マジャル語は隣接するいずれの民族とも隔絶しており、系統的にはフィンランドやウラル地方の民族の言葉に近い。日本語同様に「てにをは」といった助詞がつき、発音・文法とも学習するのがかなり難しい部類に入るのではなかろうか(ちょっとだけかじった)。
 現代のマジャル人は言葉こそ「アジア系」だが、彼らの風貌は全く白人そのものである。ただ、他のどのヨーロッパ諸国とも違い、名乗りで苗字が先に来る。

 ハンガリーの国土の多くは平原だが、その地形は東方からやって来る遊牧民にとっては、故地である中央アジアのステップ地帯によく似て見えたことだろう。そのためハンガリーの地はこうした遊牧騎馬民族に好まれた。紀元前一千年紀のキンメリア人(黒海北岸地方が起源)に始まり、5世紀のフン族(「ハンガリー」という他称は、この「フン」が訛ったもので、多分に悪意がこもっている)、6世紀のアヴァール族、9世紀のマジャル族と続く。キンメリアを除くといずれも東方のウラル山脈のあたりから移住してきたものらしい。フンやアヴァールに至っては、それぞれ中国北方に居た「匈奴」「柔然」と同類ではないかという説もある。
 もっともハンガリーは常に東方から来る遊牧民の天地だったわけでもない。紀元前4世紀にはケルト人が、その後はゲルマン系と総称されるゴート族やランゴバルド族、さらに6世紀頃にはスラヴ人も移ってきている。故郷を後にした彼らにとって、カルパチア平原は農地としても魅力的に見えただろう。こうした農民と遊牧民の文化が複雑に絡み合ってハンガリーの文化は成立している。
 伝説的な首長アールパードに率いられ、896年にマジャル族はカルパチア平原に入ってきたという。955年に神聖ローマ(ドイツ)帝国のオットー1世によってレッヒフェルトで撃退されるまでの60年間、マジャール族の侵入と略奪はヨーロッパを脅かした。この敗戦と、キエフ公国によって東方のウクライナ・ステップ地帯との連絡を断たれたことを契機に、マジャール族は定住してドイツからキリスト教を受け入れることになる。
 1001年にはイシュトヴァーン1世がドイツのオットー3世の後押しで戴冠し国家としての体裁を整えた。ハンガリーの領土は現在のハンガリーのみならず、ルーマニア東部、クロアチア、セルビア北部、スロヴァキア全土に及んだ。またドイツ人を多く招聘、王国東部のトランシルヴァニア(現ルーマニア)に入植させた。

 しかしこのアールパード朝は1241年のモンゴル軍の侵入で衰退(モンゴルの二代目大カンであるオゴデイが急死したため征服は免れた)、1301年には断絶する。ここからが我々日本人には理解しにくいことだが、ハンガリー貴族たちは合議で王を他国から呼ぶことにした(キリスト教という共通の文化的背景をもち、異国の王族間の婚姻が多いヨーロッパでは普通なのだろう)。フランスのアンジュー家(1307~82年)、ついでボヘミア王を兼ねていたドイツ皇帝ジギスムント(ルクセンブルク家、~1437年)、そしてポーランド王ウワディスワフ3世(マジャル語ではウラースロー、1440~44年)がハンガリー王位を兼ねる。
 この頃トルコではオスマン帝国が勃興、バルカン半島進出を始めていた。1444年にウラースローはヴァルナでオスマン帝国軍に大敗して戦死する。ハンガリー貴族たちは互選してフニャディ・ヤーノシュを摂政に選ぶ。ヤーノシュは1456年にベルグラードでオスマン軍を撃退して名を挙げ、ヤーノシュの息子マーチャーシュは1458年に王として即位、オーストリアやモラヴィア(チェコ)、シュレジア(ポーランド)を征服してハンガリー王国の黄金時代を現出した。ルネサンス文化を受け入れ、また貴重な写本を集めコルヴィナ文庫を残した。
 ところが瓦解も早かった。マーチャーシュが1490年に死ぬとボヘミア王ウワディスワフ(ウラースロー)2世、その息子のルドヴィーク(マジャル語ではラヨーシュ)2世がマーチャ―シュとの協定によりハンガリー王を兼任するが、国内では1514年に農民叛乱が起きる。それに乗じてオスマン帝国はハンガリーに侵攻、1526年のモハーチの戦いで精強を誇るハンガリー騎兵はオスマン帝国軍の火器の前に敗れ去り、ラヨーシュも戦死した。1541年にはハンガリーは現在のスロヴァキアを残して全土がオスマン帝国の領土に組み入れられた。イスラーム教であるオスマン帝国の支配下では信教の自由が認められ、折しも盛んだったキリスト教の宗教改革の影響を受け、プロテスタント(新教)カルヴァン派がトランシルヴァニアを中心に根付いた。

 ハンガリー王の地位は戦死したラヨーシュの姉婿だったオーストリア王ハプスブルク家に引き継がれる。1683年のオスマン帝国によるウィーン攻囲失敗を機にオーストリアは反撃に転じ、1686年にハンガリーの首都ブダを奪還、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリー全土を割譲させた。ハンガリーは150年ぶりに異教徒であるオスマン帝国からは解放されたが、ハプスブルク家という絶対主義王政の支配を受けることになる。1703年、早くもオーストリアに対して反乱が起きる。
 18世紀後半、オーストリアの女帝マリア・テレジアとその息子ヨゼフ2世は、農奴解放(これはハンガリー貴族に不評で取り消された)や諸民族融和を目指した帝国内各民族の母語による教育などの施策を行う一方、帝国の「ドイツ化」を目指しドイツから招いた農民を組織的にハンガリー南部に入植させたりした。
 19世紀に入るとマジャール人の民族主義運動はますます昂揚、1848年にヨーロッパ各地で革命が起きるとハンガリーにも波及し、ブダペストではコシュート・ラヨーシュが革命政権を樹立、ハンガリーの独立を宣言する。これに対して手の施しようが無かったオーストリアはロシアに援軍を要請、ロシア軍20万の前にハンガリー革命政権は潰えた。
 しかしロシアはバルカン半島に野心を持っており、スラヴ系住民に汎スラヴ主義を鼓舞していた。これに危機感を抱いたオーストリアは1867年にプロイセン(ドイツ)に敗れたのを機にハンガリーに実質的な独立を認めてオーストリア・ハンガリー二重帝国とし(外交・軍事権のみをオーストリアが保持)、マジャル人の協力でスラヴ人の独立運動を押さえ込もうとした(「アウスグライヒ体制」)。

 1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は第一次世界大戦に敗れ瓦解、ハンガリーはついに独立国となった。しかし国土の7割を削られ350万人のマジャル人が国外に取り残され、近隣諸国との関係が悪化した。
 このハンガリーの立場を利用したのがナチス・ドイツである。ドイツは油田のあるハンガリーを味方につけるため、マジャール人の多いスロヴァキア南部(1938年)、ルーマニアのトランシルヴァニア地方(1940年)を、両国に圧力をかけてハンガリーに割譲させた。ハンガリーは第二次世界大戦(1939~1945年)でドイツに協力する。しかしこの戦争は敗北に終わり国土の多くは焦土と化し、ハンガリーは戦勝国であるソ連に占領された。
 ソ連の指導の下、ハンガリーには共産主義政権が誕生、1949年にはハンガリー人民共和国を名乗る。ラコーシ・マーチャーシュ共産党第一書記は産業・農業の集団化を推し進め、また政敵を次々と粛清していった。1953年に首相の座に着いたナジ・イムレはこれに反対して1955年に解任される。
 ところが、ソ連ではスターリンの死後(1953年)、ニキータ・フルシチョフが政権を握り「スターリン批判」を展開、スターリン的手法を取っていたラコーシは1956年に逆に解任される。ソ連支配から解放されることを望んだ民衆運動によってナジは首相に返り咲き、ワルシャワ条約機構からの脱退を宣言した。三日後、ソ連は大軍をハンガリーに侵攻させて民衆運動を弾圧し、これに答えた。死者およそ25000人、ナジは見せしめの公開裁判に掛けられ、1958年に処刑された。
 このハンガリー動乱の際共産党第一書記だったカーダール・ヤーノシュは首相を兼任、30年に及ぶ独裁をしく。カーダールはソ連の意を受けながらも自由化を少しづつ推進しようとし、1968年に隣国チェコスロヴァキアが「プラハの春」を迎えた際には市場経済の導入も試みている(「プラハの春」もハンガリー同様、ソ連軍に押しつぶされた)。1986年のハンガリー動乱30周年には犠牲者を悼むデモが起きて警察が鎮圧したが、民主派はカーダールの辞任を要求した。カーダールは1988年に辞任に追い込まれた。
 1989年にはソ連の覇権崩壊、東欧革命の流れに乗って一党独裁を停止、またオーストリアとの国境を開放して東ドイツ当局の出国制限を有名無実化し「ベルリンの壁」崩壊にも一役買った。1990年には自由選挙が行われた。1991年にはワルシャワ条約機構が解散、駐留ソ連軍は撤退した。
 その後急進的な経済改革で高インフレ・高失業率を招き、選挙で社会党(旧共産党)が政権に返り咲いたりしているが、市場経済化は徐々に成果を表わしている。一人あたりGDPは5097ドル、最大貿易相手国はドイツである。ハンガリーは隣国内のマジャル系住民に配慮して善隣外交を行っており、特に1999年のコソヴォ紛争では慎重な姿勢をとった。1999年にNATO加盟、そして今月のEU加盟を迎えた。

 ハンガリー現代史については、ハンガリーのユダヤ人親子三代の運命を描いた「Sunshine」(邦題「太陽の雫」)という映画に活写されている。主演のレイフ・ファインズが一人で親子三代三役を演じていてちょっと冗長な映画だが、ハプスブルク時代末期からハンガリー動乱までのハンガリー近代史が分かり易くまとめられている。
 作曲家のフランツ・リスト、ジャーナリストのピュリッツァー、探検家のオーレル・スタイン、写真家のロバート・キャパ、指揮者のゲオルク・ショルティ、投資家のジョージ・ソロス、ついでにイタリアのポルノ女優チチョリーナなど、国外で活躍するハンガリー人(ドイツ系・ユダヤ系含む)は結構多い。
 最近ではユダヤ系の作家ケルテース・イムレ氏がノーベル文学賞を受賞してますね。


 EU新加盟国・チェコ共和国  2004年05月06日(木)

 月並みだが、僕が最初に「チェコ」(いや、当時は「チェコスロヴァキア」か)と接したのは、中学の音楽の授業だった。チェコ人べドルジフ(ドイツ語ではフリードリヒ)・スメタナ作曲の組曲「我が祖国」の第2曲「モルダウ」である(「麗しの川よモルダウよ…」)。そしてその後、小学生のときからお馴染みだった交響曲「新世界より」第2楽章(「遠き山に日は落ちて…」)を作曲したアントン・ドヴォジャーク(ドボルザーク)もチェコ人だと知った。こんな素晴らしい音楽を生み出すのだから、チェコという国は素晴らしい国に違いない、と思ったものだった。
 もっとも、エルベ河の支流でチェコの首都プラハ市内を貫流する「モルダウ川」は、実はドイツ語の名称で、スラヴ系である彼らの言語では「ヴルタヴァ川」というのだと後に知った。なぜこの名曲は「モルダウ」というドイツ語の名前で知られるようになってしまったのだろう。

 チェコ共和国は面積7万8千平方キロ(日本の約5分の1)、人口1千万、一人あたりGDP4950ドル(日本やドイツの約5分の1)である。
 チェコは南西・北西・北東の三方をそれぞれベーマーヴァルト(森)、エルツ山脈、ズデーティ山脈という比較的険しい山地に囲まれており、ドイツや(現代の)ポーランドと自然国境をなしている。エルツとはドイツ語で「鉱物」という意味があるが、その名の通りこの山岳地帯は鉱物資源に恵まれ、チェコの産業の基盤となっている。
 一方オーストリアとスロヴァキアに面する西側と南側には平野が広がっており、この両国との関わりの深さは地理的条件からも想像がつく。実際、オーストリアには20世紀初頭まで400年近い支配を受け、スロヴァキアとは20世紀に75年にわたり連邦を形成していた。

 プラハ市街を見下ろすプラハ城が立つフラッチャニの丘は紀元前にはケルト人の城塞集落(オッピダ)だった。その後チェコにはゲルマン人が来たりもしたが、6世紀頃からはスラヴ人に居住されるようになる。
 チェコの地に最初に建設された国家は、多分に伝説的だが7世紀前半のサモの国家だという。このサモというのはゲルマン系フランク族の商人で、現地のスラヴ人を指導してアヴァール族(ハンガリーに居た騎馬民族)やフランク族の支配から解放したという。サモの死後国家はすぐに瓦解したというが、チェコ国家はその開闢伝説からしてドイツの陰が見え隠れしている。
 9世紀にはモラヴィア王国が建設され(モラヴィアとは現チェコの東部地方)、ビザンツ(東ローマ)帝国の支援を受ける。836年から885年にかけてはコンスタンティン(キリル)とメソディウスという二人の伝道者によりキリスト教が伝えられ、スラヴ語による独自の祭式を定めたという。この二人を記念して7月5日はチェコの祝日となっている。このモラヴィア王国は906年に遊牧騎馬民族マジャール族(ハンガリー)の侵攻を受け滅亡した。

 現在のチェコ西部にあたるボヘミアではプルジェミスル家が王になった。その初代ヴァーツラフ1世はキリスト教を積極的に受け入れたが、キリスト教化に反対する弟のボレスラフによって殺された。もっともボレスラフもマジャール族との対抗上、ドイツのオットー1世の協力を仰がざるを得ず、ドイツからキリスト教を受け入れ、973年にはプラハにも司教座が設けられた。ヴァーツラフはチェコの守護聖人に列せられた。
 もとよりボヘミアはドイツに支援されていたが、12世紀後半になると、三圃制農業を導入して農業生産力を上げ人口が増えたドイツ人の東方植民が活発化、チェコにも都市が建設され、鉱山が盛んに採掘された。チェコは1158年に神聖ローマ帝国(=ドイツ帝国)の一部とされた。1253年に即位したオタカル2世は国内の貴族を抑えて中央集権化を図り、交易を重視して北方では北海沿岸のドイツ騎士団と協力してポーランドやリトアニアと争い、南方ではスロヴェニアまでを征服しアドリア海進出を目指した。しかしドイツ皇帝の地位を選挙で争ったハプスブルク家と対立、1278年のマルヒフェルト(ウィーン近郊)の戦いで敗死した(この際オーストリアはハプスブルク家のものとなる)。
 プルジェミスル家はオタカルの孫ヴァーツラフ3世が暗殺され1306年に断絶、チェコはヴァーツラフの姉(妹?)エリザベートと婚姻関係にあったドイツのルクセンブルク家に継承された。エリザベートの息子カレル1世は神聖ローマ皇帝に選出され(ドイツではカール4世と呼ばれる。1356年の金印勅書で有名)、チェコはドイツの中心であるかの観を呈した。カレルはパリ大学に倣って1348年にプラハにドイツ語圏で最初の大学を設立(カレル大学)、またプラハ市街の整備を進め、カレル橋やプラハ城など、今日見られる美しい古都プラハの威容を整えた。彼の名前は有名な温泉地カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ名カールスバード)にも残っている。

 ドイツ随一の文化的先進地帯となったチェコだが、貴族や教会の支配層はいずれもドイツ人に独占され、「ドイツ化」への反発もあった。そんな中登場するのがヤン・フスである。1369年に貧農の家に生まれたフスは神学を修めてカレル大学の学長になり、民衆の口語であるチェコ語で礼拝を行い、教皇庁による免罪符の発売や、教会の世俗支配による腐敗を告発した。ドイツのルターによる宗教改革に先立つことおよそ100年のこのフスの主張に対し、ローマ教皇は彼を騙してコンスタンツ公会議(1415年)に召喚、異端の罪を被せて火刑にしてしまった。
 フスの支持層だった農民や市民層はこれに憤激、「ドイツ憎し」の感情から、1419年にカレル1世の息子ジギスムント(当時ハンガリー王を兼任)に対して叛乱を起こした。チェコ人による内紛、神聖ローマ帝国にハンガリーやポーランドも巻き込んだ戦乱は1485年まで続き、教会勢力や王権、そしてドイツ勢力の弱体化を招いた。一方でチェコ貴族の発言権が増大、彼らは合議して1471年にポーランドの王子ウワディスワフ2世をボヘミア王に選んだ。
 ウワディスワフは1490年にハンガリー王も兼任したが、そのハンガリーにはオスマン(トルコ)帝国の脅威が迫っていた。ウワディスワフの子ルドヴィーク2世は1526年にモハーチでオスマン軍に敗死、ルドヴィークの義理の兄弟であるハプスブルク家のオーストリア王フェルディナント1世がチェコとハンガリーの王位を継承することになった。
 ハプスブルク家は宗教改革に際してはカトリック(旧教)を一貫して支持、プロテスタント(新教)を弾圧した。フス派に連なるプロテスタントの多かったチェコでは、1618年にチェコ貴族たちがプラハ市庁舎の窓からハプスブルク家の帝国参事官を放り出して抵抗の意を示し、ドイツ全土に新教・旧教両派が入り乱れて戦乱を繰り広げる30年戦争(~1648年)の発端となった。戦場になったチェコを含むドイツ全土は荒廃した。この戦争で活躍したカトリック軍の傭兵隊長アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインはドイツ系ボヘミア貴族の出身である。
 1648年に戦争は集結したが、チェコはハプスブルク家の領国内に留められた。戦争中プロテスタントに残酷な弾圧が加えられ15万人が逃亡、チェコ貴族の土地の半ばは没収されてチェコ人の多くが農奴化され、カトリック化とドイツ化が進められた。現在のチェコにはカトリック(39%)のほかに「無信仰」という人が40%居るが、これは第2次世界大戦後の共産党支配の成果ばかりでもないだろう。

 18世紀の啓蒙主義の流行で、1781年にオーストリア王ヨーゼフ2世は宗教寛容令(プロテスタントとユダヤ教を許可)、さらに農奴解放令を発布した。一方でボヘミアとモラヴィアではドイツ語のみが公用語とされ、チェコ語教育は許可されなかった。
 これに対し、19世紀に入ると、ドイツ・ロマン主義の影響も受けて、チェコ人自身の民族再生運動が高揚した。ドブロフスキーは「チェコ語文法」を編んでチェコ語の文章語化に取り組み、言論主導によるチェコ民族運動の基礎を作った。冒頭の作曲家スメタナやドヴォジャークも19世紀後半の人だが、スメタナはドイツ語で育ち、30代半ばになってからチェコ語を習得したという。
 1848年にヨーロッパ各地で革命が起きた際、チェコにおいても民族独立の機運が高まったが、成功しなかった。オーストリア領内のスラヴ系住民を懐柔するため、チェコ人にはオーストリア帝国議会に議席があてがわれた。
 1914年、第一次世界大戦が勃発、オーストリアはロシアと戦争したが、オーストリア軍内のスラヴ系兵士たちにはハプスブルク家への忠誠などさらに無く、敵であるロシア軍への集団投降が相次いだ。ヤロスラフ・ハシェクの小説「兵士シュヴェイクの冒険」はその体験が元になっている。
 1918年、オーストリアは降伏して帝国は瓦解、チェコはスロヴァキアと合邦して独立国チェコスロヴァキアとなった。チェコ人とスロヴァキア人の両方の血を受けた学者政治家トマーシュ・ガリグ・マサリクが大統領に就任、善隣外交を繰り広げる一方でチェコの産業育成に尽力し、チェコは工業国として成長した。

 その頃隣国ドイツではナチスが台頭していた。再軍備しオーストリア併合に成功した総統ヒトラーは、1938年にチェコ国内のドイツ系住民の保護を訴え、ズデーテン地方の割譲を要求する。当事国チェコ抜きで独伊英仏という大国により行われたミュンヘン会談の結果、チェコはズデーテンを割譲させられた。ところが翌1939年、ヒトラーは前言を翻しドイツ軍はチェコスロヴァキアに進駐、英仏の支援も期待できないチェコは無抵抗のままドイツの保護領とされ、スロヴァキアは独立してドイツの傀儡となった。
 1942年、ドイツのボヘミア総督ラインハルト・ハイドリッヒがチェコの抵抗組織に暗殺されると、ドイツは報復としてメンバーを匿った小村リヂツェを包囲、村を完全に破壊して男性全員を殺害、女子供は収容所に送られた。同年に作られたアメリカ映画「カサブランカ」には、ヒロインのイルザ(イングリッド・バーグマン)の夫として、ドイツに抵抗するチェコ人活動家ラズロが登場する。
 しかしチェコがドイツから解放されるのは、1945年5月8日のドイツ降伏を待たねばならず、戦場にならなかったチェコは戦争被害があまり無かった。終戦直後、ドイツ系住民290万人がチェコを追放された。

 「解放者」としてやってきたソ連は共産党を強力に後押しした。1946年の選挙で共産党は第一党に躍進、1948年にはソ連の支援を受けてクーデタを起こし政権を掌握した。共産党独裁の下、粛清の嵐が吹き荒れ、土地改革や工業の国有化が行われた。
 行き詰まる計画経済に対し、1968年に共産党第一書記に就任したアレクサンデル・ドゥプチェク(スロヴァキア人)は市場経済原理の導入と言論の自由を打ち出した。この「プラハの春」の改革運動に対し、ソ連のブレジネフ政権はワルシャワ条約機構軍50万をチェコスロヴァキアに侵攻させ、この改革運動を押しつぶした。
 ソ連はグスタフ・フサーク(スロヴァキア人)を共産党第一書記・大統領に据え、フサーク独裁政権による「正常化」が進められた。ドゥプチェクは解任され営林署職員にまで左遷され、作家のミラン・クンデラら知識人の多くは亡命を余儀なくされた。1977年、劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルらは「憲章77」を発表し自由化を求めたが、フサークは投獄を以って報いた。
 1989年11月、相次ぐ東欧諸国の体制変革に呼応してチェコでもデモが相次ぎ、20日間で共産党政権は崩壊、「ビロード革命」と呼ばれた。ドゥプチェクは復権し国会議長(1992年死去)、ハヴェルは大統領に選ばれた(2003年まで在任)。一方、スロヴァキアでは民族主義が高まり、1993年にチェコと分離している。
 チェコは経済改革とドイツとの経済関係拡大に邁進し、一時(1997年)ロシアの金融危機の影響で経済成長が停滞したが、現在はプラスに転じている。1999年にNATO加盟、先日のEU加盟を果たした。


 EU新加盟国・スロヴァキア共和国 2004年05月09日(日)
 
 EU新規加盟国紹介、今日はスロヴァキア共和国である。1993年にそれ以前の75年間続いたチェコとの合邦(チェコスロヴァキア)を解消し独立、建国して10年ちょっとという非常に若い国である。位置的にはオーストリアやチェコの西、ポーランドの南、ハンガリーの北になる。またウクライナ共和国(かつてのソ連)とも100kmたらずの国境線で接している。
 僕がドイツに留学して来たばかりの時、スロヴァキア人と寮で同室になった。彼を通じて何人かのスロヴァキア人と知り合いになった。男女問わず皆白皙碧眼金髪だった。皆控えめながら人懐っこいところがあり、ちょっと野暮ったいところもあるが(僕の知っているチェコ人は控えめという点で共通していながらも、一様に非常に物静かで怜悧な感じがするところとはちょっと違う)、非常に好感の持てる人達だった。

 スロヴァキア語もチェコ語やポーランド語同様、西スラヴ系言語に属する。スロヴェニアのところにも書いたが、「スラヴ」という言葉はスラヴ系言語の「スロヴォ」という言葉から来ており、「言葉」という意味がある。スロヴェニア同様、スロヴァキアもこの「スロヴォ」という言葉から出来た民族名だろう。つまり「言葉が話せる人々」という意味の集団名である。一方スラヴ人たちは隣人であるゲルマン系の言語を話すドイツ人に対しては「ネメツ」という名前を与えた。「分からない」、つまり「理解できない言葉を話す連中」くらいの意味だろうか。まあドイツ人がスラヴという言葉から「奴隷」を意味する「スクラーヴェ」(英語のスレイヴ)という言葉を作ったのだから、お互い様というべきか。
 スロヴァキア国旗は国旗中央の紋章を除いてしまえばスロヴェニアと全く同じ上から白・青・赤のスラヴ三色旗で、国名だけでなく国旗も非常に紛らわしい。紋章はポーランドとの国境をなすタトラ山脈を表わす山影に、キリスト教を示す二重十字架が立つデザインである。
 スロヴァキアは面積4万9千平方キロ(日本の7分の1)、人口は540万(兵庫県と同じくらい)の国である。僕がドイツで会ったのはスラヴ系のスロヴァキア人ばかりだったが、この国には少数民族としてハンガリー系(外見上はスロヴァキア人とあまり変わらない)やロマ(いわゆる「ジプシー」、黒髪や浅黒い肌をもつ彼らの外見はかなり違う)がそれぞれ10%ほどいる。

 歴史年表や歴史地図を開いて見ても、「スロヴァキア」という国はなかなか出てこない。そういう名前の国家が成立するのは実に20世紀に入ってからのことである。
 スラヴ人が東ヨーロッパ全土に広がるのは6世紀以降といわれ、チェコと同様、この地に国家なるものが成立したのは、多分に伝説的な7世紀前半のサモの国家だという。ついで二トラ公国が成立するが、モラヴィア(現在のチェコ東部)のモラヴィア王国に併合される。モラヴィア王国は東ローマ(ビザンツ)帝国と国交をもち、そこから派遣されたコンスタンティン(キリル)とメソディウスという二人の伝道者により、9世紀後半にモラヴィア王国にキリスト教が布教されたという。
 モラヴィア王国は906年に東方からやってきた騎馬民族マジャール人の襲撃で滅亡、スロヴァキアの地はマジャール人の建てたハンガリーに支配される。そして20世紀までの1000年間、スロヴァキアはハンガリーの一部としての長い歴史を歩むことになる。
 1241年のモンゴル軍の来襲を契機にハンガリーでは王権が弱体化して貴族勢力が強まり、彼らは大土地を所有して農民に君臨した。また14世紀以降はスロヴァキアでもドイツ人による植民が盛んに行われ、都市が建設され鉱山が開発された。バンスカー・ビストリツァ銀山やクレムニツァ金山は、16世紀以前のヨーロッパでの産出量の4分の1を占めていたという。

 1526年、ハンガリーはオスマン帝国に敗れてスロヴァキアを除く国土の大部分を失った。ハンガリー王位は縁戚のオーストリア王ハプスブルク家に引き継がれた。ハンガリー貴族たちはオスマン帝国、やがて1683年にオーストリアがハンガリーを奪還するとハプスブルク家に対する抵抗を、スロヴァキアを拠点に続けた。ハンガリーがオスマン帝国に支配された150年間、ハンガリーの首都はスロヴァキアのポジョニに遷された。現在のスロヴァキアの首都ブラティスラヴァである。ハンガリーがオーストリア王家の支配を受けたため、この街はプレスブルクというドイツ名も持っている。
 19世紀のヨーロッパに吹き荒れた民族主義運動はスロヴァキアにも及んだが、スロヴァキアの場合は支配階級であるハンガリー、そしてそれを支配するオーストリアという二重の支配者への抵抗運動となった。1848年、ハンガリー革命政府はハンガリーの独立を宣言したが、その領土には当然スロヴァキアも含まれていた。スロヴァキア人は革命政府に自治を要求したが受け入れられず、そのためオーストリア政府に協力してハンガリーの独立運動の弾圧に加わった。
 1867年、オーストリアはハンガリーの一定の独立を認め、オーストリア・ハンガリーニ重帝国となったが、ハンガリーはオーストリアに協力して領内のスロヴァキア人の独立運動を弾圧した。スロヴァキア人は同じスラヴ系のチェコ人と連携しつつスラヴ民族主義を高揚させた。

 1918年に第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリーが敗れると、アメリカ大統領ウィルソンの唱える民族自決の原則によりスロヴァキアは独立が決まったが、在外(アメリカ)スロヴァキア人が提出したチェコとの共同国家案を受け入れ、チェコスロヴァキアとなった。しかし憲法では「チェコスロヴァキア人」という民族しか認められず、また多数派のチェコ人主導の国家であり、スロヴァキア人民族主義者には不満が残る内容だった。実際チェコとスロヴァキアの言語には方言程度の差しかないはずだが、歩んだ歴史の違いがこの両者を二つの民族とせずにはおかなかったのだろう。
 スロヴァキアのこの民族運動を利用したのはナチス・ドイツである。1938年、ドイツがチェコにズデーテン(ドイツ系住民が多い)割譲を迫った際もスロヴァキア民族主義者はこれに呼応し、翌年にドイツがチェコを併合した際、ドイツはヨーゼフ・ティソ率いるスロヴァキア民族政府に独立を認め、ドイツの保護国とした。ここに史上初めてスロヴァキア国家が誕生したのだが、その実態はドイツの傀儡に過ぎなかった。

 1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北、スロヴァキアを含む東欧は戦勝国の談合によりソ連の勢力圏とされた。スロヴァキアは再びチェコと合邦しチェコスロヴァキア社会主義連邦共和国の一部となる。
 1968年、スロヴァキア人アレクサンドル・ドゥプチェクはスロヴァキア共産党第一書記からチェコスロヴァキア共産党第一書記に昇格した。ドゥプチェクの父シュテファンはアメリカに移民した経験をもち、チェコスロヴァキア独立と共に故国に戻り、ついで共産主義に共鳴してソ連の中央アジア開拓に参加、ドイツがチェコスロヴァキアを併合すると故国に戻りドイツへの抵抗運動に従事した経歴を持っている。
 ソ連留学経験もあるドゥプチェクは、ソ連式の硬直した社会主義の行き詰まりを感じていた。ドゥプチェクは「プラハの春」と呼ばれる改革運動を開始、市場経済原理や言論の自由を導入する。これに対してチェコスロヴァキアへの支配権を危惧したソ連は8月にワルシャワ条約機構諸国と共に友好国たるチェコスロヴァキアに侵攻、武力で改革を停止させた。
 ソ連は共産党第一書記の座にスロヴァキア人のグスタフ・フサーク副首相を据え(のち大統領を兼任)、「正常化」と呼ばれる改革派への弾圧を行わせた。フサークはスターリン時代には「スロヴァキア民族主義者」の烙印を押され投獄された経験があったが、ドゥプチェクにより副首相に引き上げられた人物である。ドゥプチェクは連邦議会議長、トルコ大使へと左遷、やがて党員の資格を剥奪され、秘密警察の監視下で営林署職員として働いた。「プラハの春」に参加した改革派への陰湿な嫌がらせが続いた。
 1989年、ソ連の覇権が崩壊したことによって一連の東欧変革が起き、チェコスロヴァキアにもその動きが及び、フサーク政権は崩壊、共産党の一党独裁放棄、自由選挙、市場経済化が行われた。ドゥプチェクは連邦議会議長に返り咲いたが、1992年に交通事故の怪我がもとで死去した。

 東欧変革の動きは同時に、共産主義時代はタブーだった民族主義の噴出を招いた。ウラジミール・メチアル率いる民主スロヴァキア運動は支持を集め、1993年1月1日をもってチェコとスロヴァキアは分離、48年ぶりに独立スロヴァキア国家が誕生した。人口比に従い軍などの国家資産は1:2の比率でチェコと分割された。
 民族主義の熱烈な支持を背景に、強権的で独裁色の強かったメチアル政権は、NATOやEUへの加盟交渉も事実上中断されるなど国際社会から一時孤立した(東欧で日本との査証相互免除協定が一番遅れたのもスロヴァキアである)。1998年の総選挙でメチアルは敗れて下野したが、未だにスロヴァキア政界に隠然たる勢力をもっている。今年(2004年)4月に行われた大統領選挙にメチアルは出馬し、事前の予想を覆して第一回投票で有力候補だったクカン外相を蹴落としたが、西側諸国のメチアルへの忌避感に影響され、かつての右腕だったイワン・ガシュパロヴィッチ前国会議長に決選投票で敗れた。
 ガシュパロヴィッチも以前はEU加盟により国家主権が制限されることに反対の立場だったのだが、スロヴァキアは予定通り2004年3月のNATO加盟、5月のEU加盟を果たした。
 スロヴァキアは一人あたりGDP3740ドル(2001年)、失業率14%と、EU新規加盟国の中では最も経済状態が良くない国の一つである。EU加盟の条件を果たすため社会保障の半減を含む緊縮財政を実施、今年2月には恒常的に失業率が高い東部のロマ系住民による暴動騒ぎが起きた。しかしEU新規加盟国のほぼ中央にあるという地理的条件を好材料として、ドイツなど西側諸国による投資が拡大している。


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